「日曜大工」にかけた、孤独な5年間の片道切符。未だ見ぬDIYブームへの序曲

和気産業が家庭金物卸からDIY専門商社へと舵を切る前夜。その転換期の中心にいたのは、後に二代目社長となる和気博史でした。

前回は、若き日の博史が、停滞する家業を「脱皮」させるべくスーパーマーケットという新天地を切り拓き、「空気を運んでいるよう」な非効率な商売からの脱却を誓った様子を振り返りました。

今回は、博史が「日曜大工」という新たな文化に可能性を見出し、理想と現実のギャップに悩みながらも、変革へ突き進んだ激動の5年間についてのお話です。

運命を変える「3つの学び」

当時の和気商店で専務を務めていた博史は、凄まじい「仕事人間」でした。平日は業務に邁進し、土曜は終業後の夕方に青年会議所へ向かい、日曜日はデパートでの市場調査や図書館での勉強に費やす日々。そんな飽くなき探求心の中で、彼は会社の運命を変える「3つの学び」を得ます。

  • 海外から「Do It Yourself(DIY)」という未知の文化が押し寄せていること。
  • 2年後にカナダでモントリオール万博が開催されること。
  • 工具は鍋などの家庭金物に比べて小さく、それでいて高価なこと。

一度に大量に運べる上に単価も高い工具は、物流効率の面でも極めて魅力的な商材に映ったのです。

日曜大工の広まり

折しも1960(昭和35)年、松下紀久雄氏が「日曜大工クラブ」を結成したことで、「日曜大工」という言葉が日本中に広まりつつありました。
この言葉に魅せられた博史は、いち早くスーパーマーケットへ「日曜大工用品」としての売り場提案を行います。しかし、当時は「金物はスーパーになじまない」という固定観念が強く、1965(昭和40)年の実験販売も失敗。博史の熱意とは裏腹に、現実は厳しいものでした。

佐賀市の日祐本店に家庭金物を陳列している様子
1964(昭和39)年 佐賀市の日祐本店の陳列の様子。
まだまだ家庭金物ばかりが並ぶ。

それでも彼は諦めませんでした。
「既存の建築金物を売るのではなく、生活者のための商品を新たに開発すべきだ」と考えを深め、1965年の大阪金物連合見本市では「ぼくとパパの日曜大工」を掲げた展示で特選を受賞。この成功を糧に、日曜大工用品の取り扱いを増やし、1967(昭和42)年には東大阪の金物団地へ移転し、社名を「和気産業株式会社」へと改めました。

「日曜大工」の言葉が広まった1960年から、見本市で結実した1965年までの5年間。
未来にDIYブームが来ることをまだ誰も確信していなかった時代に、博史だけは霧の向こうにある確かな光を見つめていました。この孤独な暗中模索の時期こそが、後に花開く和気産業のDIY精神を形作ったのです。

こぼれ話

和気産業の65年社史には、ある営業マンの奮闘記が記されています。

新規開拓先で断られ続けた際、彼は諦めずに「柱を1本貸してほしい」と交渉しました。柱を傷つけないようにラワン材とハンガーボードを使い、幅75cmで奥行30cmの小さいスペースに、陳列や空間利用を工夫した売り場を作って日曜大工用品を並べたところ、商品は飛ぶように売れたといいます。
あまりの売れ行きに、2か月後には正式に大工用品売り場を設けてもらい、階段の踊り場には塗料コーナーも完成。それ以来、この営業マンは売り場のデッドスペースを見つけては新規開拓や売り場確保ができるようになったそう。
そして、この小さな工夫こそが、今では当たり前となった「ハンガー什器陳列」の原点となったのです。

ハンガー什器の例

次回は、博史が5年以上情熱を燃やし続けた、当時の「日曜大工(Do It Yourself)」の文化について深掘りします。

※この記事の内容は、弊社社史「和気産業65年の歩み」、「和気産業80年の歩み」ならびに2025年9月時の取材を元に作成しています。