商売の原点を覆した万博の衝撃。和気産業が歩み始めた「DIY専門商社」への道

当時の2代目専務である和気博史が、周囲の反対を押し切って向かった1967年のモントリオール万博。
彼はイギリス館に展示されていた「DIYをする人たち」のマネキン展示に感銘を受けました。

今回は、帰国後の博史の動向や考えの変化についてのお話です。

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日曜大工用品のみに絞る決断

博史がモントリオール万博へ渡航する前、和気商店は「ぼくとパパの日曜大工」をフレーズに掲げて金物、工具、木材などの日曜大工用品を店舗に卸していましたが、依然として鍋やお玉などの家庭金物も主力にしていました。  

しかし、イギリス館の展示に強烈なインパクトを受けた博史は、この展示から今後は日曜大工一本でやっていくことへの確信を得たのでした。博史は後に、『繁栄の泉』昭和56(1981)年11月号にて、以下のように語っています。

「私どもは、その(モントリオール万博の)3年ぐらい前から、日曜大工用品のような商売を手掛けていましたが、まだ家庭金物と建築金物が、当社の売り上げの2本柱だったんです。この展示(イギリス館のDIYをする人たちのマネキン)を見たのをキッカケで、今後は日曜大工一本で行こうと決断しました。以後、一番主義、先制主義、集中主義をスローガンに、当社独自に日曜大工用品を開発し、日曜大工用品問屋としての態勢がほぼ固まったのが(昭和)45年(=1970年)です。

(「まいどおおきに 和気産業65年の歩み」85-86ページより抜粋)

モントリオール万博の会場内での和気博史の記念写真
モントリオール万博会場での一枚

売り方に対する思考の転換

また、博史はモントリオール万博の展示から、後の会社経営に影響を及ぼす発想も得ました。

博史は「日曜大工用品」とは「生活を向上させるためのものならばなんでも扱う」という大きな幅をもった商品群を指していると考えていました。しかし、当時の日曜大工用品セットはのこぎり、カンナ、金槌が主役であり、彼は本当にこれが必要なものなのか疑問に思っていたのです。

金槌やノミなどの日曜大工用品の陳列
1960年代後半の商品陳列

そのような考えを抱いていたときに見たイギリス館のマネキン展示。
DIYといっても家族で壁紙を貼る姿などが描写されており、誰ものこぎりや金槌を持っていませんでした。

このことから博史が提唱したのが、「垂直思考から水平思考へ」でした。

垂直思考とは、鍋や釜などの金物類を扱うことを前提に販売だけを考えている思考法であり、これまでの和気商店はその考えのもと、米屋・家具屋に的を絞ったり、国内で広まり始めていたスーパーマーケットへの売り込みを行ってきました。

それに対して水平思考とは、ユーザーが欲しいものを、欲しいときに、欲しい形で手に入れることができるように、ニーズに合わせて変化できる販売方法でした。   
売り場がお客さんに便利なように数多くの商品が用途別に構成され、自由に買える。そしてそれをつなぎ合わせることにより、横にニーズを広げるというスーパーマーケットの構成は、まさに水平思考そのものだったのです。

こぼれ話

モントリオール万博が開催された1967年、この年に発足した東大阪市に金物団地が造成されました。それに合わせて社屋を大阪市東成区から金物団地へと移転し、社屋竣工とともに、社名を「和気産業株式会社」へと改めました。

金物団地にあった和気産業株式会社本社の外観
金物団地に完成した和気産業株式会社の社屋

金物団地で開催されていた団地祭りには全国から関係者が訪れました。そして彼らはみな、口をそろえて「和気さんは新しいものを知っているからまず最初に訪れるべきだ」と言い、博史のもとへと駆けつけたようです。  

モントリオール万博へと旅立つ際に、「海外渡航は一生に一度かもしれない」「今行かなければ、誰も行くことができないかもしれない」と強く思った博史は、大阪市商業班「北米カナダ産業視察団」として万博を視察したのちにアメリカ各地を回り、行く先ごとに百貨店やスーパーを飛び回って商品や陳列方法をメモして回っていたそうです。

同行者が「よくあれだけ動き回れるなあ」とあきれるほど精力的に見て回ったようですが、博史は帰国後に学んだことを社員をはじめ多くの人々に惜しみなく伝えていました。

持ち帰った膨大な知識と熱量は、自社だけに留まらず、やがて日本のDIY産業全体を牽引していく大きな原動力となっていったのです。