1967(昭和42)年、カナダで開催されたモントリオール万国博覧会。
その会場で目にしたある展示を機に、和気博史は日曜大工事業へ一本化する決断を下しました。
当時の和気産業は家庭金物と建築金物が売上の柱でしたが、「生活向上のための提案」というDIY本来の価値を確信。従来の「商品を仕入れて売る」という垂直思考から、顧客ニーズに合わせて商品を自由に組み立てる「水平思考」へと大きく転換し、DIY専門商社としての基盤を築いていきました。
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日曜大工センターの隆盛
和気産業が「日曜大工用品一本でやっていく」と決意した頃、日本全国で「日曜大工センター」が続々と誕生し始めました。
1970(昭和45)年4月には、大阪市大正区に「辻本日曜大工センター」がオープンします。3年後に発刊された業界紙によると、約80㎡の売り場には大工工具、建築金物、木材、壁紙、塗料、網戸、園芸用品、ペグボード、マスターキーなどが所狭しと並び、大工道具や木材、塗料が売れ筋の中心だったようです。
来店客は家族連れ(当時の記述では「パパ、ママ族」)が8割、大工などの専門職が2割を占めていました。店舗は土曜・日曜が圧倒的に忙しく、平日は夕方になると賑わいを見せていました。
辻本日曜大工センターに続くように、1972(昭和47)年7月には東京・新大久保駅の近くに「新宿日曜大工センター」が開業します。都心型・商店街型と呼ばれたこの店舗は、立地の良さもあり、平日は100人、休日は200人以上の来店があったと記録されています。
この頃、和気産業では「日曜大工センター開店マニュアル」というパンフレットを作成しました。B4横書きで18ページに及ぶこの冊子には、「日曜大工」の言葉の定義、将来性やその要因、業界分類から見た日曜大工、商品に対する価値観の変化、売れる店と売れない店の違い、計数管理、購買傾向、店内レイアウト2例などが掲載されており、フランチャイズ展開のマニュアルとして活用されていました。



ホームセンターの誕生
日曜大工センターの広がりと時期を同じくして、1970年前後から「ホームセンター」という形態も誕生し始めました。
1969(昭和44)年には、ホームセンターの先駆けといわれる「ハウジングランド順天堂駅前店(現 ジュンテンドー益田店)」が島根県益田市にオープン。
その3年後の1972(昭和47)年には、埼玉県与野市(現 さいたま市)に、日本初のアメリカンスタイルのホームセンター「ドイト与野店(現 コーナン ドイト与野店)」がオープンしました。

ドイト与野店は倉庫を活用した店舗で、3,300㎡の駐車場と1,650㎡の屋内面積を持ち、品揃えは1万2,000点にも及ぶ大規模な郊外型店舗でした。建設中の店舗を見に行った当時の和気産業社員は後に、「私の目には倉庫としてしか映らなかった。今でこそ当たり前だが、当時はそれほど画期的な店舗設計だった」と語るほど、当時としては珍しい店舗形態でした。
1973(昭和48)年のオイルショックの際、多くの店で商品が品薄となる中でも、ドイト与野店は圧倒的な品揃えを維持し、価格の吊り上げも一切行いませんでした。そのため消費者が殺到し、「ドイト与野店」の名は一躍全国に知れ渡ることとなりました。


和気産業も開店当初からドイト与野店との取引を開始しました。当時の営業担当が、袋入りの水道用品をバラ売り用に陳列替えしたという思い出が社史にも書き残されています。また、店舗見学者の案内役としての依頼も数多く舞い込みました。
こぼれ話
ホームセンターの誕生と隆盛について、当時の和気産業や和気博史を一番近くで見守っていた妻の澄子さん(3代目社長)からは、興味深いお話もお聞きしました。
昔はお見合い結婚が多く、家具店は結納品として桐タンスなどを販売していましたが、やがて団地などに住む人が増えると、よりコンパクトな家具が求められるようになりました。
そうした変化のなかで、ドイト与野店の成功を見た全国の家具店から「同じようなお店を作りたいので、店舗づくりの指導をしてほしい」という要請が和気産業に寄せられるようになりました。敷地面積の広い家具店はホームセンターへの業態転換に適しており、和気産業は売り場の枠組みやレジシステムの導入などを丁寧に指導していきました。
また時を同じくして、バブル期に急増したガソリンスタンドも経営が厳しくなった際、家具店と同様の指導を行うことで、新たなホームセンターチェーンへと生まれ変わった事例もありました。
当時の家具店やガソリンスタンドにとって、ホームセンターづくりのノウハウを惜しみなく教えた和気産業の存在は非常に大きかったようです。澄子さんは「あなたの夫がいなければ、うちの会社はありませんでした」と熱く感謝の言葉をかけられたり、「ご本人には断られたが、どうしても店を救ってくれたお礼がしたい」と、すっぽん料理をもてなされたこともあったそうです。
一度はお礼を辞退した姿にも、みずからの成果や会社の功績を誇るのではなく、DIY業界全体の繁栄を何よりも第一に考えていた博史らしさが表れていると感じます。



