DIYの先駆け「日曜大工」は、業界をタテ割りからヨコ割りへ

「ぼくとパパの日曜大工」フランチャイズチェーン1971年(昭和46年)スタート

「ぼくとパパの日曜大工」という名称でフランチャイズチェーン(以下、FC)展開を始めたのは1971年(昭和46年)と記録されています。1973年ごろになると、それはブームになり、オイルショックによる不況にもかかわらず、1975年ごろピークを迎えます。

新宿日曜大工綜合センター(当時の写真)
新大久保に今もある「新宿日曜大工センター」の当時の写真。入口に「ぼくとパパの日曜大工」という貼り紙も。

当時の朝日新聞の記事には、

“最初、日曜大工用品を手がけ始めたころには、仲間業者から『道楽商売がうまいくものか』と笑われたこともあったが、カナダで開かれたモントリオール万国博会場で日曜大工コーナーのある英国館が、宇宙関係のアメリカ館、ソ連館と人気を二分しているのをみて、『いずれは日本でもブームになる』という確信をつかんだそうだ。

そのために販売体制の強化に力を入れてきた。百貨店、スーパーへの売り込みのほか、小売店の育成に努め、いまでは全国の得意先は470店にのぼる。

さらに、この4月からは、日曜大工店強化のためフランチャイズ方式を取り入れ、店舗設計の統一、一括仕入れを進めている。社内体制でも企画部をつくって、オリジナル商品の開発に本格的に取り組み始めた。” 

と報じられました。

業界をタテ割りからヨコ割りへ。日曜大工のコンセプトとは

日曜大工とは、従来金物、荒物、表具、塗料、建材などタテ割りになっていた住まい関連の各業種を、ヨコ割りにして総まとめにしたものです。当時、小まわりのきく中小企業にはうってつけの商売でした。

日曜大工についての説明は、小学館の百科事典によると以下のとおり。

“勤め人などが日曜日その他の休日を利用して、専門の大工の手をわずらわさず、自分で家屋の補修や家具、器具を作ること。また左官業などを含め広義の家庭工作をいい、実利的効用とは別に創造性の開発、育成、ストレス解消の一方法として発展してきた。”

社史からは、日曜大工の明確なコンセプトは読み取れませんでした。

当時の記録を紐解くなかでの推察となりますが、以下のような内容がコンセプトとなっていたのではと考えられます。

  1. 日曜という言葉を休日も含めて広義に解釈
  2. 大工という言葉を、広義の家庭工作という観点から取り上げる
  3. 実利的効用とは別に、創造的要素も取り上げる

DIYの前身「日曜大工」を弊社の中心事業に

日曜大工のFC展開を1971年に始めた弊社。その年度の弊社売上高は14億2,000万円。1972年には16億円、1973年には23億円を突破しました。

業種別には、建築金物42%、工具類26%、木材15%、その他17%となっており、この比率は販売先である日曜大工店の売り上げ比率とほぼ一致しています。

この時期、弊社の日曜大工用品の取扱品目は6,200種類にものぼっています。しかし、従来の日曜大工=大工用品という古い概念から脱皮することも必要だと考えていました。そのため、日曜大工のオリジナル商品の開発が必須であると考えるようになります。

なぜなら、玄人(大工用品を扱う人)と素人(日曜大工をする人)では、商品に対する価値観がまったく違うからです。例えば、塗料のハケをとってみても、玄人はすべらない持ちやすい白木の柄を好みますが、素人はきれいなカラーの柄を好みます。柄をカラーにすることで、玄人向きの本来の機能は失われますが、素人が楽しむことを重視すれば、こういった素人の感覚にマッチした商品開発が必要になるのです。

まとめ

和気産業が「日曜大工」を手がけたことは、DIY専門商社としての土台を作るうえでの大きな一歩でした。

現在では日曜大工という言葉はなくなり、DIYが定着しています。しかし「DIY」という言葉を広める前段階として「日曜大工」という言葉が使われたことは、意味があると考えます。当時の日本人にとって、伝わりやすくわかりやすい言葉だったのだろうと想像するからです。

※弊社社史「和気産業65年の歩み」P113~116より抜粋